Loveaffection

薔薇は甘くて柔しくて、魔。

僕らは日常があるから夢を見れるし、夢を見るから日常を生きてゆける。

自分的初日の話、ほぼツイッターの再放送





真ん中で挨拶の殿を務め、Dreamで締められた「ザ・アリーナ」。あんまりにも菊池風磨濃度が濃かった。全身で菊池風磨を浴びた。SexyZoneに対する大きな責任感がそこにあって、それはずーっとずーっと重く両肩にのしかかっていたものだったけど、今のそれには同じくらい大きな矜持と自信が同居しているような気がした。SexyZoneへの信頼があったし、SexyZoneのこともファンのことも信じることができる力強さがあった。

コンサートが終わった瞬間の感覚はSTAGEを見たときに近い。物語はないような気がするのにどうにも波に身を任せてしまう浮遊感というか、テーマがそこにあるのに考えればいくらでも考えられそうなのに、何も考えなくても良くて。全体の統一感とフローのサラサラ感がSTAGEの満足感や完成度に近い、と思った。でもあのときは「覚悟」が絶対に欠かせないワードで、今は「自信」がそこにある気がして、新しい姿を見せてもらったような気がする。

ストーリーラインはなく全体的に80-90年代初期をオマージュにしたコンサートだったけど、それってつまりバブリーでテレビもアイドルも元気だったころで。そりゃぁそれしたらハイカロリーなステージになる。そういうあの時代の生命力を憑依させようとしているからか終始元気で楽しそうな印象を受けたのだけど、ふうまくんはテレビの力もアイドルの力も信じてる系アイドルだから、その溢れる生命力を2時間纏った状態から Dream を歌うのって単なるアイドルのオン/オフステージとは別の層としての「夢の時間からの還り」だなと思った。全体としての物語はないはずなのに、「
終わらない夢を見たい」で始めたはずなのに、「夢みたいに綺麗に消えて」って本当に消えていく。全部の余韻をDream一つに詰め込んでる。純粋に挨拶の通りに「日常」と「夢」の対比であって、だからきっと今年のツアーは「日常があるから夢を見れる、夢があるから日常を生きていける」だと思ったんだけど、同時にきっとアイドルが一番元気だったかもしれないあの頃を纏うことでひと時の夢を見てそして現実に還るっていう時間でもある気がした。そういうのを夢見て、今を生きているのかもしれない。
アイドルという存在が消えた世界で日常を戦うために生きるためにアイドルが再び現れる文脈で、Forever Goldをシンプルに装飾を削ぎ落して眩しい眩しいライトと水だけを浴びながら高らかに歌いながら踊ったのが本当に眩しくて、確かに僕らは夢を見るから日常を戦えるんだろうと思った。

結局「僕たちはどう今を生きていけばいいのか」みたいなのがずーっとSexy Zoneの奥底にある感じがあって、でもそれを今年はほとんど感じさせないまま最後に落とす、っていうのが爆風をくらうくらいの衝撃というか、今の今まで忘れさせられてたのに絶対Sexy Zoneは「生きる」ことをおざなりにしない生真面目さがあって。なんか、そういうの本当無視してすっごく統一感があって没入感があって素晴らしい完成度のコンサートなのに、おざなりにしないから、すっげぇな~!